第16回 研究会「言語行動と主体的/主観的 表現ー言語主体の場面と意識を中心にー」2017.7

日時: 2017年7月8日(土)13:00~17:10 (懇親会:17:40~19:10)
会場: 青山学院大学 総研ビル 10階第18会議室

テーマ : 「言語行動と主体的/主観的 表現ー言語主体の場面と意識を中心にー」

私達が日常使う言葉は特定の場面での、特定の主体による表現、また、理解として成立します。表現主体はその場面における特定の意識状態の下に発話する。その言語表現は「客体化された表現」と「主体的/主観的 表現」からなる。表現主体の意識を直接的に表す「主体的/主観的 表現」は、現在 “subjectification” の研究の活発化に示されるように、言語の違いを超えて発達してきたと見られています。英語、中国語、日本語ではそれぞれどのような意識がどう言語記号化されているのか。三言語での発話の実態を主体の場面、意識状況の中で捉え、考えました。

プログラム内容
  1. 秋元実治講師(青山学院大学)[英語学・文法化]
    英語の副詞の文法化―主観化との関係で―[概要]
    副詞は英語において最もよく研究されている分野である。本発表においては、副詞、特に-ly接辞を持つ副詞の通時的発達を概観し、それらの副詞が主観化を帯びていく過程を考察していく。その際、左方向仮説が重要である。すなわち-ly副詞は左側に移動すればするほど主観化が高まることになる。 以下は本発表のまとめである。(i) –lyは derivational から inflectionalへと発達していった。
    (ii)–lyはますます文法化していった。
    (iii)–lyは単に副詞の文法範疇を作るだけでなく、 ‘adjective + ly’の構成により、 その要素の移動を自由にした。
    (iv) 文頭の位置に-ly副詞が来ることにより、そのスコープが拡大し、そこに話者の信念や態度などが言語的に投影される構造を可能にした(主観化の発達)。
    (v) その結果、左方向仮説は大体において支持される。
  2. 譙 燕講師(北京日本学研究センター)[語彙論・中日対照研究]
    中日両言語に見られる主観的表現 ―重複形を中心に―[概要]
    主観性は話者が命題内容に対する立場や態度、感情を表すものである。それは言語の普遍的属性として世界中の多くの言語に存在し、表現形式や手段も様々である。主観性を表す場合、各言語間では同様な形式もあれば異なる形式もあるとされている。また、重複は中国語においても日本語においても重要な文法手段の一つである。名詞、動詞、形容詞、副詞、感動詞などでは重複形により文法的意味を表すことが可能である。重複による主観的表現は中日両言語に共に多く見られる。特に原形と比べ一部の動詞、形容詞、副詞などの重複形に主観性が顕著に現れている。動詞重複の場合(例えば、(中国語)看看、走走、说说/(日本語)走り走り、泣く泣くなど)、日本語では主に「強調」の意味、中国語では更に「願望、要求、提案、催促」などの主観的意味が読み取れる。これは両言語の行為や動作に対する捉え方の相違に関わるだけでなく、場合により文や動詞の種類、人称などにも関係している。重複による主観的表現は品詞によって異なり、形容詞や副詞の場合(例えば、(中国語)红红的、高高的、偏偏、明明/(日本語)青々しい、弱々しい、まだまだ、なおなおなど)、原形の意味を強調するのが普通であるが、その「強調」は様態の強調、程度の強調など性質の異なる機能が見出される。特に形容詞の場合、「(ク活用形容詞の語幹を)重ねることは、より客観的な情態的意義を内面化して、より主観的な情意的意義へ推し進める過程を示している」(橋本、1957)という指摘は中国語の形容詞にも適用するが、ただ中国語では文中機能による主観性の強弱の差も観察される。総じていえば、中日両言語とも重複形による主観的表現が多々見られるが、異なる主観的解釈に依拠するところも少なくないと考える。
  3. 山田昌裕講師(恵泉女学園大学)[日本語学・文法]副助詞への文法化と副助詞からの文法化[概要]
    大堀壽夫(2002)『認知言語学』によれば「もともと文法形式であったものがさらに拡張されて異なる機能をになうようになるプロセス、すなわち多機能性(polyfunctionality)」も文法化であるという(p.186)。副助詞研究では、内容語から機能語へという文法化に関する記述は多く見られるが、多機能性(polyfunctionality)に関する記述は見られない。  そこで本発表では、副助詞において、とりたてから主観性を帯びた使用へと機能が拡張する多機能性(polyfunctionality)について考察した。ケーススタディーとして「なんぞ」について調査した。「なんぞ」は室町期においては、「Aかなんぞ」という形式をとり、同類の存在であるAを明示しながら「なんぞ」という例示する機能であったが、江戸期になると単に「なんぞ」という形式となり、そこでは他者の存在を明示しない代わりに、言語使用者の「気持ち」が表明されるという使用法になった。その結果を踏まえ例示系(なんぞ、なんか)、並列系(でも、やら、なり)、引用系(など、なんて、だって、ってば、ったら)の副助詞に主観性を帯びた使用が見られるという共通点があることも指摘した。
  4. 全体討議

研究会の開催にあたり、今年は以下のみなさまに補助員としてお手伝いいただきました。世話役一同より心より感謝申し上げます。

今回の補助員(氏名と所属):陶晶、中西渓(恵泉女学園大学人文学研究科M1, M2)、平山志保香(恵泉女学園大学)、徐楠、徐天成(北京日本学研究センター・言語コースM2)、加納麻衣子(元ノートルダム清心女子大学文学研究科D)